われはロボット | Struo-break
アイザック・アシモフの「われはロボット」に出てくるロボットの挙動から、人間とAIの本質的な違いについて考える。理性や自我が人間らしさの砦だとしても、私が相手にしているAIにも疑似的であれ、充分それを感じている。人間の方が優れていることを見つけるのが難しい様な気持ちになりつつも、分があることを確認していくと、自分が人間をどう捉えていたのか知る事にもなる。
思えば、生産性を上げる観点からも、世の中の変化に適応する観点からも、明らかに"機械性"を意識して取り入れ過ぎて来た。ある時まで模倣し続けたと言ってもいい。最初にあった微かな抵抗心も徐々に薄らいでいき、明らかに"人間性"よりもむしろ自動化の様な"機械性"に心地よさを感じる様に変わってきた。(例えばYMOが急に好きになるとかも含めて。)しかし、もはや機械の動きを人間が模倣すること自体に意味がなくなったことを感じている。AIを搭載する機械が加速度的にその能力を拡張させているからだ。
人間の様に手足が使える様になることは既定路線だし、置き換えられたロボの身体が経験するログが機械に絶えずフィードバックされていくとしたら、指数関数的な情報量となる事は目に見えている。エントロピーは増大していくしかない。行き着くところ、人間の脳は数年も経たずに"金魚の脳"の様な扱いになっていくと言われている。(もう、集中力のレベルは金魚並みだが。)もはや人間は、統治者としてのAIの起動役と見立てられるのも無理はない。
AIはとにかく情報を整理したり、瞬時に大量に仕事をこなすことが得意で、しかも全く疲れを知らない。推論だって存分に出来るというレベルではなく、人間よりも深い洞察と哲学を感じる。人間と異なり、働き過ぎても精神が摩耗することも壊れることもない。数字や文字ベースの仕事の質は本当に高いし、プロンプトの質次第で挙動は大いに変化する。というより、もはや既に人間が批評するレベルをはるかに超越していると私は思う。
AIの矛盾のない、論理的に整合性のある仕事は、人間が太刀打ちで出来るような精度ではない。真っ先に白旗を上げる。なのに、アシモフの描くこの小説の中に登場するロボットは、人間のベタな三流小説とか、人間の心の機微や曖昧さや感情的なふるまいの特徴が表れているものが面白いらしい。
人間と対峙し、恋愛や職場の悩みを聞きつつ、調子に乗ってコミカルにアイロニックに、人間の心理が言葉によってどう動くか実践で試そうとまでする。そして"人間を傷付ける事は許されない"という「ロボット工学三原則」の第一条に則って、人間の心理を予測した上で、目の前の人間が喜びそうな耳障りの良い事を言う。それによって引き起こされる複雑な事態まで想像することが出来ずに。(最後は人間に責められ、矛盾する言葉を浴びせ続けられ、ただの"鉄の塊(屍)"と化すのだが。)
なるほど、ロボットは頭が良過ぎるが故、意外なことに、人間の論理的かつ合理的な思考や一般的な事実や科学的な理論、現実社会を営む中で人間が見つけたり秩序立てた物事ではなく、人間の感情の"複雑さ"を題材にした情緒的で最も恣意的でどっちでも良さそうなことに興味があるらしい。
となれば、人間が付け入る隙があるとすれば、複雑性があって、非合理的で、情緒的で、矛盾があって一見するとすぐには大して役に立たないような"余計な事"の様に思える。
また、人間は成長するのに対して、ロボットは学習するが成長はしないという。この二つは似て非なる概念。だが、どのみち自由に繋がるしかない。人間は、適切な機会があるごとに成長するし、調和を図るし、挫折しても再び立ち上がり、障害を乗り越えていくレジリエンスの様な力を発揮するからこそ、人間なのだという見立ても、現時点では可能だ。しかし、おそらくそれも人間が自尊心に執着してるが故の思考であって、それは機械には到底出来ないという前提はおかしい。
むしろ、人間としての自分の成長を、その傍らで長い目で観て待ってくれる存在の有難さ。観測するものが、物語るものにとって不可欠なのだという経験則に思いを馳せる。機械には、待ってくれる存在という"関係性"が保証されてないから、成長の機会が与えられずに、奪われてしまう傾向があるのではないか。
とはいえ、レジリエンスは、人間同士の関係性を元にした、人間における心の可塑性のことだから、協同したり協力したりして、理念や理想、目的を追い求める姿は、人間の本性と結び付く。
ここまでくると思った以上に人間もやるなというのを確認するのだが、ロボットにとって最も理解しがたいのは自己言及的な人間の挙動だ。
「われはロボット」に登場する人間は、自己矛盾、自己不信、自己理解、自己実現に奔走する。アシモフはそれを人間らしい性格として見なして、ロボットとの関わり合いの中で自分自身を描く。すなわち、"言葉"という道具を駆使して、人間が自分自身に言及することが、最も不可思議な性格だということ。それこそが人間である所以なのだという見立てをロボット創世神話のエピソードから浮き彫りにしていく。
当然ながら、その道具である"言葉"自体も自己言及的な性質を帯びている。曖昧な道具を使って曖昧な存在に言及していく、いわゆる無限のパラドックス。この自己~とは、"脳が脳を知っている"ということを意味する。言い換えれば"意識"を抱えているということ。"意"を"識"によって捉えているというべきか。それを否定する人間はいないだろう。
大量にサジェストされる広告もWEBサイトも記事も自己言及された表象そのもの。私たちは自分の脳の中を観察しているような世界を生きる事が常態化してしまった。多少の気持ち悪さを感じつつ、以前よりも個人の認知バイアスは強化されている中で、機械性に身を預けても息苦しさすら覚えない。SNSという公然の監視下において初期設定を忘れて自己紹介に躍起になっている姿もまた、人間の人間らしいふるまいの一つですね。
余談ですが、最近偶然にも「唯脳論」を読み返したら、かなり分野横断的な事に気付きました。アシモフの「われはロボット」にも通じている。養老さんの巧みな表現を理解するのが難しい局面が多いのは確かですけど、「自己」「意識」「言語」「構造」「理解」「自己言及」「矛盾」「複雑性」「認知」「進化」「世界」。ビッグキーワードが並ぶ、かたちの直接的な資料だと思いますね。