二進法の探求 | Struo-break

"分からない"という事がない、"異なるものの関係性を楽々発見できる"世界は、十数年前に予見した未来。それは、当時考え得る限りにおいて、ある種の"理想"でした。テクノジーに頼る形ではなく、時間がかかっても、アナログ的な手法によって、自力で辿り付こうとしたのです。
これはライプニッツが提唱した、世界を構成する要素の最小単位"モナド"を想起させます。
一見すると分からない、複雑で曖昧な事象も、因果関係を追って、細かく分けるだけでなく、表裏一体の"相補的"な側面からも、多角的に切り分けていく。そうして最小単位(本質)に辿り着く過程で抽出したキーワードは、対象の「カタチ」を他者へ提示するための、解像度の高い言語表現(切り口)となります。その状態に易々とアクセスできることが、どれほど凄いことか。

おそらく、率先して機械(AI)に考えさせ、自らの思考の場所を明け渡して、機械に成り代わっていくタイプの人間と、人間の尊厳を死守して、非効率でも人間(自ら)が考えるイニシアチブを取り続けようとする人間のミックスが、今の情況かと推察します。そして、このAIやモナド的システムを裏側で支えているものが、「二進法」の世界です。

私たちは余りにも1,2,3......9,10,11,12と数える十進法に慣れすぎて、二進法はスッと理解しがたいものです。時計の時刻は60分で一周期の60進法だったり、7日で一週間、1月から12月を一周期として1年とする、暦の数え方など、人間は状況に応じて、器用にも数え方のルールを使い分けています。象徴的な数字を完全なモノとして見立てて、そのサイクルを繰り返したり、予測したりします。もう少し原始的なところでは、1~13くらいまで数は、何らかの意味や象徴性、完全性を主張する説があります。

一方で、0と1を組みわせて並べて、あらゆる対象を表す、二進法のいびつさは際立っています。なぜなら、天体の動きの周期性や、人間の身体的特徴や、連続的な自然現象を観察することで見出せる数え方とは異なる、極めて人工的な考え方だからです。

一応、二進法の具体例を示すと、「101」という二進法を使った"記号"があったとします。これは十進法を適用するわけではないので、"百一"とは数えません。二進法では、一つの箱(位)に「0」か「1」のどちらかしか入れられないルールがあります。1の次にMAX(もう1つ)入れようとすると、繰り上がって、一つ左の位に1を入れなければならず、元の位は0を表記するルールになっています。(※分からなくても構いません。)

十進法では、左側に行く毎に、一の位、十の位、百の位と数えていたものが、二進法では、左側に行く毎に、一の位、二の位、四の位、八の位(その後は2の倍数が続く)と数えます。つまり、二進法における「101」というのは"5" (※4×1+2×0+1×1=5)を意味します。ただし、この様な"数字"の「記号」への置き換えが本筋ではありません。これは数字も表せるという一面に過ぎません。(※分からなくても構いません。)

ライプニッツは、「何かが在ること→(1)、何もないこと→(0)」という、たった2つのルールを定め、その二つの数字を並べて"記号化"することによって、世界のすべて(あらゆる数、事象、概念等)を記述するという構想に至りました。(あとでもう一度触れます。)

ここで少し具体例を挙げましょう。人間はテクノロジーによって身体機能を拡張し、その身体感覚を通じて集めたデータを、一瞬で遠くの場所にいる誰かに向けて転送することや、WEB上にアップロード(&ダウンロード)して万人と共有することを可能にしました。
視覚や聴覚情報は結構なレベルまで、データ化は進んでいると思いますが、まだ他人と共有できない身体感覚の代表例としては、味覚(身体器官→舌)、嗅覚(鼻)、触覚的(手)な刺激を元に構築したデータだと思います。
足りない面を言葉(テキスト)によって代替している過渡期だと思いますが、手足を備えたAIが、その身体経験を履歴として残し、自らの脳的な中枢器官へとフィードバックし続け、メモリーと照合し、学習しては、改善を繰り返す様な流れが担保されれば、いずれはAIが持つ身体感覚は、飛躍的な成長を遂げるはずです。
パッと考えると懐疑的な見方にもなりますが、視覚と聴覚の情報がどれほどデータとしてやり取りすることが可能になったか、そのスピードと変遷を辿れば、時間の問題だと言えるでしょう。ここで大事なのは、どうやって身体感覚によって集められた情報をデータ化するのかということです。

いろいろ端折っていますが、ここで二進法が必要になります。身体感覚によって集めた情報は、電気信号(シグナル)に置き換えられます。この電気信号が、二進法の0と1の組み合わせである"記号"に置き換えられるというわけです。どんなに複雑な情報でも,、ユニークで重厚長大な0と1を駆使した記号になるので、なってしまった後は、その複雑性が問題になることはありません。ブラックボックスとして扱えばいいのです。記号になってしまえば、遠くの誰かに瞬時に転送することが可能になります。

例えば、食の味、その"味"の感じ方はその人にとって固有のモノだけど、届けたい相手の舌に感得させることが可能になるという事です。"味"はいったん電気信号を経由して二進法の"記号"になります。そうして、飛ばすことが可能になり、飛んだ先で記号から具体的な刺激になり、固有の情報が相手の身体器官に対して、再構築されるといったイメージでしょう。考えてみれば、視覚や聴覚的な刺激も同様の経路を辿っているとみなせます。

二進法は、注意深く対象を観察し続けた結果、人間に芽生えた数え方ではありません。ライプニッツは、「論理」と呼ばれる、言語の無限の可能性、非連続的な性質を見つめ続けた結果、1と0の並びのなかに、創造の秘密があると確信したのでしょう。ある切り口を元に"世界"を捉え、記述し切ることを企てるのは、コスモロジーです。人間には"統覚"がありますから、不思議な事とは言えません。時に大胆な仮説を立てることを可能にします。

ライプニッツは、自身が打ち立てた理論に酷似した体系を、東洋の文化の中に見つけました。それが中国の「易経」です。(これ、私の"かたちの方位磁針"の構想にも近いんですよね。)

絶えず変化し続ける自然界の営みや人間の運命、その複雑性の極まる世界の動きを、「陰(ーー)」と「陽(一)」という2つの記号の組み合わせ(六十四卦)に集約し、記号化して編み上げた「易経」は、"指南書"としての性格を持っています。すなわち、単なる手順(マニュアル)ではなく、「状況の変化に応じた心構えや、進むべき方向(ベクトル)」を教え導くものです。

これは、人間の恣意性に満ちていますが、大陸の長い歴史の中で、四方八方を敵に囲まれている様な、地政学的な要因に従って研鑚され、編集された思想と考えていいでしょう。

孫子の「兵法」が、現代のビジネス界隈でよく持ち出されるのに比べて、それほど「易経」を話題にすることが少ないのは、西洋科学の基本原則である、客観的であること、再現性があることに反するからだと思います。"意識の"世界を取り入れること自体が「ノイズ」になりがちなので、易経の体系は他者と共有しづらいわけです。

ライプニッツが、二進法と、易経の体系が完全に一致していると知ったとき、このアイデアの有効性は、すでに東洋の叡智が証明していたと、確信を得たはずです。