ひからびた論理 | Struo-break
80年代の初頭に名著の多くは作られたという師のコトバを抱え、それ以降の本が薄いとは思えなかったので、あたりまえの様に存在する本を"名著化するように読む"ことはできないかと思ってきた二十年。カタチの哲学はこのためにあると言っても過言ではありません。
もう今となっては買った覚えのない本が書棚に多いのですが、研究者ではないのだから、真に実践的なもの以外は手放そうとした時、なぜか処分しなかったものがあります。おそらく、カタチ的なものを追いかけているうちに、これはカタチか否かというのは選定基準となっていた。しかし、伝統的な哲学や宗教が絡む内容になってくると知識が足りないので、形態学や自然科学を中心に選ぶことで避けて通ってきたのかもしれません。
意味の高まりが具現化した文庫本や新書本は、自分の理解力さえ追い付けば身になるという考えもあります。そして、思わぬ掘り出し物に当たる事も出てきます。
論理学の基礎を易しく説いた「考え方の論理」(沢田允茂著 講談社学術文庫)、分類の方法を東西の歴史を網羅する様に解説した{「分ける」こと 「わかること」(坂本賢三著 講談社学術文庫)}。どちらも一見すると冷めた内容ですが、あたたかい視線をもって平易に語ろうとしているような本です。学生当時では分からなかった内容が、経験をそれなりに蓄えると真価を発揮します。
考え方の論理の沢田允茂さんは冒頭でこう言います。「論理学は.......若い皆さんにとっては何の面白みもない学問でしょう...........しかしと、私は考えました。あななたちの中のよろこびや悲しみ、希望、空想などを、正しくこの世の中に生かしていくためには、いつかかならず、ひからびた論理も必要と感じるときが来るだろうし、もしそんなときが来なければ、あなたたちの夢も希望も、むなしく少年時代のゆめで終わってしまうかもしれない、と。」研究者の眼差しがどのようなものか、顕著にあらわれた痺れる一文だと思います。
論理学を易しく説いた「考え方の論理」を読んでると、論理演算やゲーム理論の基礎の様だし、トポロジーでどの空間を差しているかという命題にも思えるし。少なくともクラスなどの集合の概念、つまり数学的な思考は登場します。また、縦横に軸を取るマーケティング分析の様でもあります。
人間は複雑系に秩序を与える上で、自然や生き物、学問や法、観念や感情、人間や集団同士の関係性や取引など、抽象的なものから不可視なものまで名前を付けることで識別可能な状態にし、記憶の中に階層構造を取り入れ、組み込んできた。その名前のつけ具合と言ったら、執着心とか執念と呼ぶのにふさわしいほど細分化しており、一方で、例えば木の一本一本を別の名前を付けないでも「林」と言ったり、「森」と言ったりして、名前を呼ぶコストを最小限にする工夫もしてきた。
途中、「考え方の論理」と{「分ける」こと 「わかること」}のどっちの本を読んでいたか分からなくなるほど。論理学の情報として関心がなければ、数学やトポロジー、プログラミング、マーケティングのデータ分析とかを経由して戻れば、ああやっぱり必要ですね、という事になる。その時には到底ひからびた論理には思えなくなる。ただし、語り部は全体的な視点を持つ人に限る。
講談社学術文庫のタイトルが増えてきました。なぜもっと早く読み解くことが出来なかったのか悔やむというのは嬉しさが半分混じるものです。師があの時話していた内容はここに所以があったのかとか、時空を超えた発見があるのも良い本を見つけた時の喜びですね。