範疇と悟性 | Struo-break
物事を理解する時、その対象を要素に切り分けることで成り立つことが多い。しかし、範疇(カテゴリー)という言葉を考えていた時に、それは"経験によって左右されない"ものなのだというところに興味を抱いた。
不思議なことに、人間は"経験に先立って"脳内に情報整理のBOXを持っているという。きっかけは「「分ける」こと「わかる」こと」(坂本賢三著 講談社学術文庫)になる。
範疇は、誰かに教えてもらったモノを意味しない。生きる経験によって必要性が分かって用意したものでもない。これはドイツの哲学者カントが明らかにした考え方だ。
何かの事象に遭遇した時、その範疇に沿って、情報を仕分ける人間の能力のことを「悟性」という。この「悟性」とは何と聞きなれない響きだろう。少なくとも理解や理性と比べて、日常的に使うシーンがない。「悟性」とは、経験に依存しない、人間本来の仕分け能力と言えよう。
カントが提示した純粋"悟性"概念表としての範疇(カテゴリー)はユニークだ。「質」「量」「関係」「様相」から枝分かれしている。ここでいう純粋とは、"経験と関わらない"という意味だ。これは、それまで信じられていた、アリストテレスの掲げた告訴に必要な基本的10個の範疇から、経験という要素を排除したことに、カントの功績がある。予め持っているこの箱になら、あらゆる経験を収めて理解することが出来るという。その見立てが合ってるか間違っているかは問題じゃない。そういう方法で世界を認識しようとしたってことだ。
人間は経験もないのに、どう問題を扱えばいいかわかる能力がある。その源泉が「悟性」だ。カントが試みてるのはコスモロジーだが、経験に依存しない性質のため、その射程は意識の領域や生命の根源にまで及ぶ。
では、そもそも何で知ってるのかと言えば、唯識思想の阿頼耶識の様に、経験を種子として貯蔵した前世での記憶を継承しているからだという見立ても出来るし、それが「本能」の正体なのだとも考えられる。つまり、有機体は皆持っている、生存のためのスキームだ。もちろん、熊をはじめとする動物もそう。皆、どうやって生きるか、どうやって子育てするかを経験する前に知っている。
複雑で曖昧な事象を身体感覚によって知覚し、経験に先立つフレームワークで、意味のある世界として構造化するというスキームが、"認識"を意味する。
私には、有機体が経験に依存しないで範疇を持つっていうのと、人間の先天的な仕訳能力として「悟性」が働くというのがとても魅力的な事象に映る。もし、これを生き物固有の知覚による世界の立ち上がり=環世界(ユクスキュル)や、本能(バシュラール)や言語(チョムスキー)や社会の創発(レヴィストロース)に置き換えていくなら、より魅力的な展開を見せていくだろう。その起点がカントだということ。