リアルタイムの創出知 | Struo-stationery
巾着の造りが固まりました。織ネームの調達に時間がかかりそうですが、今後展開できそうです。
いま、"場所"に関する"類書"を並べて自分の視点を導入してみたいと思っています。昔集めた本の中に「生命知としての場の論理」(清水博著1996年・中公新書)があり、複雑に散りばめられた要素を丁寧にマーカーで拾いながら読むと、類まれな良書であることに気付きます。
二十歳ぐらいで無理に分かる必要性すらなかったと思うのですが、経験を通じて立ち上がってくる理解というのが真の価値を発揮します。
生物学、遺伝子工学、論理学、免疫学、武術、剣術、戦略論、役者論、ストーリー論、脳科学、社会科学、プログラミング等の領域が複雑に交錯している。これを丁寧に紐解いてみると、一貫性が感じられます。しかし、興味深いことにamazonレヴューで見るとこの事自体に心地悪さを覚える人もいる様です。話題が恣意的でさらに飛ぶように感じ、絡まって一貫性がないと感じるのだと思うんですね。
著者は「リアルタイムの創出知」が生き物として最も大事な感覚だと述べます。これはアブダクション。「"場"において"自己"の表現は他者との関係性や相互作用において整合的(コヒーレント)に決定されていかなければならない」と。何てことのない表現だと思われるかもしれませんが、分野を越境し、統合していくには的確な表現に感じられます。
その具体例を最も分かりやすく表出する"場"として生き死にを賭けた"真剣勝負"に見出している。後戻りの出来ない一回性のイベントですね。格闘、スポーツ競技、事業にも通じます。簡単に言えば生存戦略であり、その"場"においていかに相対的に勝るかという事だと思います。勝つために自己のふるまいはどのように決定されるべきなのでしょうか。
ふと思い出すのは、資源の乏しい日本が第二次世界大戦で真珠湾攻撃に踏み切る前にハルノートを突き付けられた史実。米国にしてみれば敵が自らの"自由意志"によって攻撃を仕掛けたと思わせる事で敵の状態が"限定"されたのです。無限定な状態というのは、色んな可能性が生じてしまうから、自己のふるまいが決定できない。だからこそ、敵に"自由意志"を発揮させるように仕向ける。これは優位性のある強者側の論理とも言えますが、面白いのは、プロモーターの前田さんの言うカウンターの極意とも一致するんですね。古武術や剣術に端を発しているのかもしれません。
私の領域で考えると、自分があえてやるべき得意なことは何か。得意でないのなら他の造り手に委ねた方がいいという割り切りがあって、それが奇しくも市場がユーザーファーストに棲み分けられていく事に繋がる感覚を抱いています。市場の誰一人、それを確認したわけではなく、手元の資源や歴史と相談しながら空気を読んでそうなっていく。市場という"場"において、整合的に自己のふるまいが決定していく一つの事例と言えそうです。