"いったいそれはどういうことなのか" | Struo-break

最近の思考は、西洋と東洋の根本的な違いに行き着きます。例えば、状況を整理する方法として、5W1Hのような手法はよく使われますが、これは極めて西洋的な考え方です。
事象を要素に切り分けて「定義・分解・制御」する枠組みであり、抜け漏れなく要素を洗い出す思想に基づいています。(東洋的に見れば、要素が抜け漏れていくのですが)
この考え方の起源は古代ギリシャ・ローマの修辞学で、問責の方法にあると言われています。

5W1Hは、元々の日本語の文脈から生み出されたフレームワークではありません。本来、日本語の話者の私は、何か曖昧で複雑な物事を正しく把握しようとするとき、"一体其れはどういう(如何言う)事なのか?"と問うて来た様に記憶しているのです。この言葉は、英語で言うなら、具体的に何を聞いているのでしょうか。

What does that mean?(意味・内容)どういう意味?どうつながるの?
How does that work?(仕組み・構造)どうなってるの?どういうしくみ?
What's the big picture?(全体像)どんな感じ?どんな流れ?
What are you getting at?(真意・着地点)要するにどういうこと?落としどころは?

という問いと重なります。たった一言でこれ程の意味を含んでいる。シンプルに"どういうこと?"と聞く時も、内容はこのような事を聞いている。もっと短くまとめると、

The Big Picture(全体像)
Sensemaking(意味づけ・状況把握)
Bottom line(要点)

を問うている。

ある程度知っているもの、つまり既知のモノを良く知ろうとするときは5W+1Hでもいい。しかし、心底未知なるものに遭遇し、その出来事を整理しようとするとき、5W+1Hが役に立たないことも起きえます。(今やそれが日常茶飯事ですね。)
つまり、予め経験することで用意してあったボックスのどれにも収まる気配がないわけです。何か、いきなり"部分"に分解し始めるような事象は、そもそも既知のものであることが前提になっているようだし、分解しようとする時間的な余裕すら感じます。
つまり、必要なのは"既存の分類"ではなく、"場の気配から仮説を導き出す"、アブダクション(仮説的推論)ですね。

【日本語の構造】
日本語の特徴としては、主語(Who)や目的語(What)の省略が挙げられます。「誰が」や「何を」を明記しなくても、場や文脈で「コト」が完全に成立する言語です。「いつ・誰が・何を」を冒頭に揃えなくても、最後の文末(「〜である」「〜かもしれない」「〜という気がする」)まで、全体の気配や述意(態度)が確定しません。

つまり、日本語は要素を並べて論理を組み立てる構造ではなく、「場の空気や気配を丸ごと抱え込み、最後に着地させる」構造を持っています。簡単に言えば、最後の最後まで発言を聞いてみないと解釈の方向性が定まらないのです。

【見立て・兆し・型】
日本語で行ってきた5W+1Hに相当するものは何か。それは「分解」ではなく、「見立て」「兆し」「型(かた)」を通じた探求でした。

●見立て:目に見える対象を、別の何かになぞらえることで、その本質や関係性を仮説的に捉えること
●兆し:まだはっきりしたカタチになる前の、微かな空気の変化や予兆を身体感覚で察知すること。
●型:個人的主張や要素分解に頼らず、先人が洗練させてきた「場と調和するためのフレーム」を通して、全体の佇まいをカタチにすること。

個別具体的な「いつ/誰が/何を」よりも、「いかに(如何に)」「いかなる(如何なる)」という、「状況・状態・気配全体」を尋ねることが中心です。また、要素を分解して定義するのではなく、ある現象を別のものに「見立てる」ことで、その場全体の"佇まい"を表現します。

【5W+1Hでは捉えきれない全体】
西洋的な知が「解体・要素分解・分類」によって対象を理解しようとするのに対し、日本的な知は「全体の気配や流れのなかから、輪郭(かたち)が自然と結ばれていくのを捉える」アプローチをとります。
ある対象を「要素」に解体するのではなく、「関係性・流れ・気配・境界の揺らぎ」という"未分化な全体"として捉えます。こうした東洋的な認識論のなかでは、5W1Hという網の目では、すり抜けてしまう問いが多く存在するのです。

例えば、5W1Hは「なぜ(Why)」という因果関係(原因と結果)や、行為の主体を追及します。ですが、東洋的な認識では、物事の原因や、行為の主体を探るよりも「いま、自分と対象・場がどのような気配で相応し、響き合っているか」という感覚を重視します。すなわち、「感応・間合い・佇まい」の中にこそ、未分化な全体を捉える本質があるのです。

【日本語の認知ストーリー】
微かな「兆し」を感じ取り(感応)→それを自分の感覚で「見立て」て意味を与え(間合い)→「型」を通して、美しい佇まいとして現出させる。(佇まい)