阿頼耶識 | Struo-break
私の原点は人間は身体の諸感覚を通じて外界から情報を取得し、メモリーとの照合を試みて内的世界に情報の構築物を立てる事が「理解のモデル」とする考え方だった。万物照応とか言われたりする。これは身体(手)をインタフェースとして"身体性"を獲得しようとする、Struo-stationeryの基本にもなっている。
この"諸感覚を通じて"という部分は、五感の様に簡略化されたものではない。本来は名付けようもないぐらい細分化された人間の鋭い感覚の総体を指す。具体的に言えば圧覚や温覚、痛覚や運動感覚、平行感覚などが挙げられる。{「手と脳」 紀伊國屋書店 久保田競著}これらは手に備わった身体感覚ですが、一部の感覚が名付けられたに過ぎない。(試しに様々な感覚を調べると階層的に無数に繋がる。例えば数覚や色覚や音覚)
筆記具を通して手(脳)を積極的に活用するというのは、こうした脳と身体感覚の繋がりを強化し、全体として機能させることに繋がる。(後述する意識の世界の先に目を向け、取り込もうとする上では土台となる経験だと思う。)
このモデルを凌駕するのが大乗仏教における「唯識」という思想。(講談社学術文庫「唯識の思想」横山紘一著を参考) そこにはいわゆる五感を想起する"識"の呼び名(眼識,舌識,耳識など)があり、その先に意識があり、末那識(まなしき)があり、阿頼耶識(あらやしき)があるという。意識はともかく、末那識とは、今でいう「認知バイアス」としての個人的な執着心や主観(今や自分自身で設置した"おすすめ"から逃れるのは難しい)。阿頼耶識とは個人の経験を"種子"として蓄える深層の心。合わせて"八識"。
これらは外界から情報を取得する際に、階層性を持つ"一枚の膜"の様にはたらくので、目の前の現象をどのように捉えるか、情報として取り入れるかという内容は人によって全く異なってしまう。そういえば、カタチのコスモロジーはこの"膜作り"のことであるのを再認識した。
現在の自分が感じている"諸感覚"に近いのは、この"八識"の方。考えてみれば意識とか常識とかの"識"ってあんまり考えずに使ってましたね。東洋思想の奥深さはこれだけでも感じるのですが、こんなことすら断片的にしか継承していないという実態に戸惑いを感じます。
以前は物事を”理解する”ための情報を集めていたので、曖昧に捉えがちな意識の世界はノイズになりがちなので棚上げしていたのですが、最近棚に戻しました。諸感覚を通じて外界から情報を取り込むという事がより立体的に感じる様になる"八識"。
タイトルにもなっている阿頼耶識は、死後にも保存され輪廻転生後にも引き継がれる識なのだそう。経験や業を次の世界に何も持っていけないわけじゃないって凄いですね。ものごとのスタート時の理解力の差がこれで納得できる気がします。また、末那識から想起する人間の主観の強さや思い込みの作用が凄いっていう話を時々友人と話しますが、この八識を知識の土台に据えると理解できることが格段に増えます。