非在の言葉 | Struo-break

ブラッドベリを理解していなかった。「塵よりよみがえり」や「火星年代記」を今読むと面白い事実に気付く。かつて身体を持っていて、今は亡きものたちの挙動や関係性を描写している点だ。言ってみれば非在の文学。すなわち"此処に在る"とは、どういうことか。それは人間や生き物が固有の時間の中で、その感覚器官を通して、唯識的に言えば識によって、連続的に"世界を捉えている”ということ。簡単に言えば、身体を通じて経験を積み重ねること自体が喜びに相当するものなのだ。{そこで思い出すのは”Haptic展"。素材へのこだわりを通じて身体性を活性化させる事も一つなのだが。} すなわち、身体性を問題にするかの様に、逆説的に"身体を持たないものたち"を主要なキャストに据える点に特徴がある。自在に場所から場所へ、人から人へ観念的に要素を動かしては言葉を紡いでいく。その者たちは生命と物質の区別がなく、人間に宿る事も出来れば鉄の柵や水たまりにすら憑依して見せる魂の様な存在だ。ブラッドベリはトポロジーの力を確信している。たとえ魂が主体であっても、かつて身体を持ったことが前提になければ、こんな奇妙な明るさを持つ生き生きとした描写にはならないだろう。
普通、当たり前の様に身体を持つということが、よもや喜びに満ち溢れている可能性が高いとは思わない。本来、感覚器官を通して目の前の現象を経験することは、世界を捉えるということと同義である。死んでいるはずなのに、生きていた時の記憶を鮮明に継承したモノたちが躍動する。彼らは今は肉体がなくても、肉体があった時に行動によって培われた言葉の感覚、すなわち身体性を巧妙に保持している。また、五感や無数の名付け難い諸感覚を刺激するふるまいを心得ている。
ところで、ブラッドベリの言わば非在の人物たちを、溢れんばかりに生き生きと描き切ろうとする、この趣向性や根拠は何だろう。それは当時も社会的には伝統的な手法ではなく、ブラッドベリは世間に受け入れられなかった。形式ばった既存の怪談の様な世界観を求められても書けなかったらしい。自分がその物語を想起しなくては、そのまま消えて行くだけのただの思い出。かつて共に過ごした実在の叔父さんや従妹との大切な記憶を表現として結晶化させたいという並々ならぬ決意や熱量が感じられる。肉体を持たないもの同士が魂レベルで再会し、肉体を持つ人間たちとの接点を描き切る。愛おしくも可笑しい心霊的な物語をブラッドベリは独特なタッチで紡いでいく。