アブダクション | Struo-stationery
「アブダクション」って言葉を見直す様になったのは、"切り口"とか"視点"を持つっていうのが目標だったから。アブダクションは"仮説的推論"と訳されます。目の前の出来事に対して、"意味を仮に置く"ということですね。未知なる情報に対して、自分がどう反応するかを判断する時にも役立ちます。
商品作りで言うならば、ニーズを集めて、その結果を忠実にかたちに反映した商品の良さは認めます。目的に徹しているという見立ても可能でしょう。しかし、個の切り口や視点が欠けた商品はつまらない商品だと感じていました。(noteで体中の毛穴が開くような鋭い関連記事を発見。)個人の偏見やストーリー、自分のために作るという姿勢が対極にあるとすれば、どちらが正解というより配合や成熟度の問題であって、評価は文脈に依存すると思うんですよね。
1,~である。なぜなら、~と~と~の様な事実が観測できるから。っていうのが演繹。
2,~という事実と~という事実が観測できる。よって~である。っていうのが帰納。
事実や前提が必ず真であることが保証できない状況では、何をどこまで信じるか、人の主観にその判断を委ねるしかありません。だから、目の前に起きる現象に対して自分自身で意味づけを行い、自らの考えや行動を更新していく、"アブダクション"が必要だという考えに至りました。
すなわち、人はこの思考の3点セットを使い回しています。何か体系的なものを理解しようとしても、自分の切り口や視点がなければ、関わりを見出せないというのも不思議な事ではありません。振り返れば、アブダクション的にしかふるまって来なかったからこそ、今のサイトに辿り着けたとも思えるのです。
最初から正解を選ぶのではなく、"選んだものを正解にする"、"自分は運が良かった"、これ皆アブダクションの言い換えなんですよ。改善主義とかもそう。「言語の本質」(今井むつみ著,秋田喜美著)がベストセラーなのも時代にマッチするからでしょうね。