ユニバーサルデザイン |Struo-break
治療に通うことが日課になって久しい、高齢の父が履いている靴は、今の身体機能にフィットしたモノ。踵の部分が妙に高くなっていて、靴の内側にはクッション性が良く効いている。最初はその造りの特異性に気付かなかった。それぐらい、その靴は自然な造形だった。だけど、手足の動きが悪くなった状態の人に、靴の機能が絶妙にマッチしていることが分かる。そういえば、これはユニバーサルデザインってカテゴライズされる様な意匠だ。
よく見ると、踵の方の底側のヘリに若干出っ張りがあって、靴同士をこすり合わせて、なんとか脱げる様な工夫までされてる。本当に考え過ぎだろうか。人間の細やかな動作を先回りして、ちょっとした差異を埋め込む。この、第三者が気付かないくらいの心配りに敬意を感じる。朽ちていく自らの機能を補おうとする姿勢を、モノが予測している。機械性を取り入れた量産品ではあるが、手の痕跡を残した仕事とはこういうものだ。
それによく似たモデルで、とあるスポーツーブランドのママが選んで履くというスニーカーを思い出す。子供が小さいと前にだっこしたりした状態で靴を脱ぎ履きするので、シューレスを超えた、直観で足の入れる位置を見極めて合わせに行くことで、手を使わずに履ける運動靴だ。おしゃれな街履きに適応した、洋服にも合わせやすいスニーカーは人気商品になっている。
この身体の情況と靴が持つ属性の関係性は、ほぼ一致している。手足が効かないと言っても、具体的にどう効かないのかというのは、直接的に観察しないと、"切実さ"を読み取ることが難しい。全く効かないわけじゃないけど、基本の動作が遅いから、それに関わるモノの属性も変化しなくてはならなくなる。例えば、人間に備わる身体機能の中でも、「平衡感覚」ってものが当たり前の機能ではないのが、今更ながら感じるわけだ。
制約を不自由と考えるかどうかはモノの意匠に関わる人間の判断に委ねられる。個人的には、良い制約だなと思っていて、およそ入るだろうという間口の広さから、一歩踏み越えてゆとりがある状態の方が、確実に入ると判断しやすくなる造りが望ましい。モノがこぼれないだろうという期待と憶測から、一歩踏み越えて、確実に落ちないから、置く向きが逆さまになっても安心みたいな造りになる。
こういう視点は今まで欠けていたものだ。子供が小さい時に、公共交通機関の無配慮ぶりを嘆いた事もあったが、慣習的な要因から、そういえばなんでこんな不親切な造りを頑張って受け入れているのかなと思う事は多い。当然ながら、本当の使い勝手は、賞を取ったとか、何本売ったとか、そういう世俗的な情報では判断できない。
今まで、存在に疑いを持たなかったものの角度を変えて観察する事で、そのモノの本来あるべき姿に気付く。積み上げられた思考に気付かないぐらい、生活の中に自然に存在するというのがエンプティネスの思想かなと考えるところ。