商品と型紙 | Struo-break

「商品」って何?っていう疑念があった当時のこと。私は、モノは誰が作ったかってことが大事なのかと思ってた。だけど、型紙があれば作者以外の人間が作っても同じものが出来上がると知り、複製装置としての"型紙"に惹かれていった。何しろ設計ソフトは必要ないし、設計の知識も要らない。数枚の平面的な型紙から、立体的なものが仕上がる事にも興味が湧いた。商品と型紙の関係は奇妙な仕組みだった。

組み立ては一人が基本。場合によって流れ作業で複数人によって仕上げていくこともあるし、人が育つのが商品の特性でもある。(実際は兵站の都合とも言える。)

属人性の高い作品的ものではなく、当事者が辞めてもまた誰かが作る形で継承できる、どんどん他人に任すことが出来る、新人も関われるのが「商品」という解釈に至った。この「商品」と「型紙」は密接な関係がある。その関連ワードとして「造り」がある。

工房では昔から作ってきた型紙は捨てずに全てストックしていた。そのことが、意外で引っかかっていた。捨てずにとっておく?って何なのか。時が過ぎても全てに価値があるというのか。
型紙には作り手の時間や思想、人となり、歴史が詰まっている。工房では誰かが作ったモノを起点に別の何かを作る人間が出てくる。そこで時間と時間が繋がっていく。未熟な状態のモノに再アプローチしたり、別の仕様に展開する連想も考えられる。そういった商品の派生があったり、時には創発が起きたり。年月の流れで大量にストックされた型紙は"宝の山"で資産とも言える。(一人の人間が作るカタチの美しさの総量は限度がありますね。作り手として脂がのっている時の型紙は貴重です。)

そのうち"造り"ってものがあり、どうもそれが商品の元(核)になっている事に気付く。これは肉体の記憶を辿る事が出来なければ、表面上は分からない。型紙から直接的に読み取れる情報ではなく、見る人が見ればわかる、非言語的な世界。ここまでくると俄然面白さが増していく。現場にしか落ちていない非言語的な情報だからだ。
十数年の時を超え、価値ある造り、その正体を明かすとすれば"レバレッジがかかった造り"。それは一手ずつ地道に積み上げていく手数では一生辿り着けない世界。(という表現も以前してましたね。)これは、STRUOのサブテーマ。別媒体に展開していきます。

ある時、当時の社長が自社の商品のユニークさは何かと迷っていた。言い方を変えれば、短所を凌駕する長所は何か。これはアイデンティティの問題(意外にも解決されてはいなかった)。結果、アイテムの面白さを大事にしようって事に着地した。
私の見立てで言えば、最大の長所は"造り"を元にした構造と顔のある"カタチ"、手作業による量産(スピード)をテコにした、素材を生かす簡潔なデザイン性だと思っていた。だけど、その分、他の要素を犠牲にしているのは確かだった。(重量とか、衛生感、緻密さとか→これらの要素はstruoが実践) 複雑性の事象に対して何を優先するかという順序の問題だった。

商品って何なのか。そういった疑問も作り手の中では沸々とくすぶっていたし、いよいよ考えを言葉で整理しなくてはならない様な空気もあった。

世間の声に耳を傾け、造りを批判の少ない方へ変えるか、もしくは、既にある独自性の"造り"の道を拡張させるか、おそらくトップは明確に答えを出さなかったのだけど、集団は後者の道を選んだと思う。

私は外に出てから図面手配によるトランク制作に携わった。図面上に現われない"造り"は確かにあった。ここでの観察が私にデザインの意義と"造り"への確信をもたらした。その過程は今でも忘れない。入札案件の特殊なケースで、他社が作った仕様書の中で意図的に隠されていた要素だったからだ。その謎が解読できないと制作不能という状況の中で、レバレッジがかかった"造り"への直観があったからこそ、その関門はクリアできた。他社の参入を防ぐ目的があったのは言うまでもない。
全体像としては、商品と型紙という特化した事象から、造りという動きに着目。そこから考えを汎化させる道筋を得たのだった。