商品と型紙 | Struo-break
「商品」って何?っていう疑念があった当時のこと。私は、モノは誰が作ったかってことが大事なのかと思ってた。だけど、型紙があれば作者以外の人間が作っても同じものが出来上がると知り、複製装置としての"型紙"に惹かれていった。何しろ設計ソフトは必要ないし、設計の知識も要らない。
商品と型紙の関係は奇妙な仕組みだった。数枚の平面的な型紙から、立体的なものが仕上がるって事にも興味が湧いた。ただ、本音では偉人由来の商品なら偉人の手で作ったものが欲しいという考えがあった。
しかし、徐々にモノと作者が一対の関係でなければいけないと思わない方が良いと思うようになった。なぜなら、お客様に届けるものは、言ってみれば工房内で誰が作ったかまでは特定できない。もちろん造り手を指定するオプションはない。カットワークは専任がいるにしても、組み立ては誰か一人が基本。場合によっては、流れ作業で複数人で仕上げていくこともあるし、人が育つ。それが「商品」の特性でもある。誰が作ってもある程度、感じ方が同じものが出来上がる保証のようなものだと理解した。(実際は兵站の都合とも言える。)
ただ、職人の熟練度や適性によって仕上がりに差があるのは、作り手目線から見ると確かだった。工房からのアウトプットとして成り立たせる。その都合という意味では、属人性の高い作品的ものではなく、当事者が辞めてもまた誰かが作る形で継承できる、どんどん他人に任すことが出来る、新人も関われる、誰が作っても同じものが出来上がる「商品」というのは便利だなという解釈に至った。
工房に入る時に昔から作ってきた型紙は捨てずに全てストックしているんだという事を社長がさらっと教えてくれた。そのことが、意外すぎて引っかかっていた。捨てずにとっておく?って何なのか。時が過ぎても価値があるから取っておくのか、もったいない?以上の何かをそこに感じたのは記憶している。
型紙には作り手の時間や思想、人となり、会社の歴史が詰まっている。何か思いがあって形態を起こしたはず。何となく作るってことは組み立てにはあっても、商品作りにおいてはほぼない。当事者には意図がある。(そういうものしか残らない。)また、工房内の誰かが作ったモノを起点に別の何かを作る人間が出てくる。そこで時間と時間が繋がっていく。そういった商品の派生のような動きがあったり、時には全く新しい流れが起きたり。
そのうち、"造り"ってものがあり、どうもそれが商品の元(核)になっている事に気付く。これは肉体の記憶を辿る事が出来なければ、表立っては見えない。(なので分析の底が浅いケースが目立つ。)造りの元になる造りや考えもあり、それが暗黙のルールであり、工房の文化であり、創業者の思想でもあることに気付く。型紙から、直接的に分かる情報ではなく、見る人が見ればわかる、非言語的な世界。ここまでくると俄然面白さが増していく。現場にしか落ちていない非言語的な情報のかたまりだからだ。工房の文化は口頭伝承で継承がなされていく。十数年の時を超え、価値ある造り、その正体を明かすとすれば"レバレッジがかかった造り"。それは一手ずつ地道に積み上げていく手数では一生辿り着けない世界。(という表現も以前してましたね。)これは、STRUOのメインテーマでもあるので、別媒体に展開していきます。
ある時、当時の社長が自社の商品のユニークさは何かと迷っていた。言い方を変えれば、短所を凌駕する長所は何か。販売段階で外部の人間の評伝を耳にしているうちに迷いが生じたのだろう。これはアイデンティティの問題(意外にも解決されてはいなかった)。結果、あれもこれもということに着地した様だった。
私の見立てを言えば、最大の長所は"造り"を元にした構造と顔のある"カタチ"を短時間で生み出して売る、もしくは手作業による量産をテコにした、素材を生かす簡潔なデザイン性なのだけど、その分、他の要素を犠牲にしているという事だった。(重量とか、清潔感、緻密さとか)複雑性の事象に対して何を優先するかという順序が大事で、言語化されていないのだから、混乱するのは仕方がない。にしてもアイテムの"面白さ"を大事にしていたのは一貫している。
ただ、その時も年月の流れで大量にストックされた型紙は"宝の山"と表現していたし、文字通り無形資産なのだということは認識していた。
捨てていないとは言いつつも、需要がなくて、もう作らなくなった過去の商品というのが結構な数あるのも明るみになってきた。そういった商品のリストを見ると、確かにユニークさにおいて、やりたいこと(造り)が他の商品と重なっているが故に、陰に隠れていってしまう。そこには意味の重複があり、すべての型紙が残るというのはレトリックなのだと気付く。
商品って何なのか。そういった疑問も作り手の中では沸々とくすぶっていたし、いよいよ考えを言葉で整理しなくてはならない様な空気もあった。
世間の声に耳を傾け、造りを批判の少ない方へ変えるか、もしくは、既にある独自性のある"造り"の道を拡張させるか、おそらくトップは明確に答えを出さなかったのだけど、集団は後者の道を選んだと思う。
私は外に出てから図面手配によってつくるトランク制作にも携わった。一人のプレーヤー(営業)が生み出せる売上は3~5倍。その世界は硬い素材でモノの表情の誤差が少ない。量産が効くイメージの工場生産。(当初は工房だった。)そこでも人の手によって図面を見ながら一生懸命作られている。図面上に現われない"造り"は確かにある。ただし、工房で作られた革製品とは明らかに様相が違う。革製品は非言語的な情報も多分に含まれるので、同じものを同じ型紙から作ろうとしても明らかに空気感や表情の違いが生まれるのが面白い。