正解のない教室 | Struo-break

「正解のない教室」(矢萩邦彦著 日経ビジネス人文庫)がアブダクティブな方法で渡り歩く私にはちょっと無視できないタイトルだったので拝読。帯で"AI時代のアンラーニング"を掲げる通り、簡単に言えばいかに学ぶか、なぜ学ぶかという様な独学の方法としても良い感触を持ちました。世界の構造と自分軸を捉える"リベラルアーツ"を志向した、まさに"カタチの書"。リベラルアーツとは中世ヨーロッパにおいて、肉体的な労働から解放された市民が自由に生きるために持つ教養としての7科(文法・修辞学・論理学→言語に関する3科、算学・幾何学・音楽・天文学→世界の構造に関する4科)に端を発しており、それを現代に置き換えた、生きるために本当に必要な教養や学習と言い換えても良いと思います。どこか知っている語り口だなと思ったのも、亡くなった松岡正剛氏という"師"へのアンサーとして位置付けていることが最後に記されており、同じ相手を私淑するが故の親近感だったことに気付きます。
私が20代の入り口で「知の編集工学」とか紹介されたのとは訳が違う。「知の編集工学」はそもそも0地点から受け入れるのに無理がある内容だと思います。経験を知識として取り入れる際に、部分の中に全体のヴィジョンがなければ、膨大に部分を寄せ集めたとしても部分の域を脱することはなく、無残なほど複雑性の情報の海に帰してしまう。それに対して、「正解のない教室」はこれでもかというくらい、十代に歩み寄った上で、知識の底上げを図るような熱意を感じるといった印象です。個人的にはAIの存在が前提となると、もう机に向かってカリカリ勉強するという風景自体が必要だとは思ってないんですね。呼吸するように学ぶ習慣が大事だとしてもどういうマインドセットと学習スタイルが必要かということに対する羅針盤として「正解のない教室」を受け止めました。
まず、ことば使いがとても分かりやすい。知識の前提の共有も難しい十代に向けた語り口としても絶妙です。(実際に十代にも講義するそうです。) 脳科学の池谷裕二氏の著作に触れた感覚に近いですね。多くの研究者や教授は知識の増加と共に記号の置き換えを繰り返し、まだ何も知らなかった当時の知識の前提を踏まえることが出来なくなっていくので、何を前提として喋っているのか(カリキュラムが組まれているのか)分からないケースが多い。そこを無理に分かろうとしても徒労に終わる事が多いんですね。そういった情報は、それを受けて認識の変革が起きることはないと思います。

本の目次読みの方法から、矢萩氏の「正解のない教室」は何を前提にした情報なのか、自分なりに解剖すると、1.自分理解(自己・主体・アイデンティティ) 2.論理(思考の形式) 3.認知(世界の捉え方) 4.言語(共有のインフラ) 5.物語(それらの統合)を巧みに問題の切り口に設定することで、情報の解体方法を示し、情報の構築を促したと言えそうです。これ、どういうことかというと、"万物照応"なんですよ。まずは内的世界に情報の編集が起きる"場"をセットして、身体性を軸に経験を積み重ね発信に向かう。そのための技法、そのための切り口だと思うんですね。細かいことを追ったり歴史を深堀りすることはその都度行っていけばいい。そして、探求する原動力となるのは"自由に生きることを求める(選択する自由がある)意志の力"というのも共感しました。