泥臭さ=システム | Struo-break
STRUOの出発点は、2010年を起点に、足を使って売りに出かけてた事。Struo-stationeryの様に、手触りのあるブランド、商品になったのは、身体性の関わりが大きいですね。発足時は、個人的に商いそのものの経験が不足していたし、作風をまだはっきり固めていない時期でしたが、世の中にどんなニーズがあって、自分が応えられる部分はどこなのかという事を、外に出て直接お客様と触れ合う中で見極める意図がありました。
卸売りも並行していましたが、手造りの商品を売るチャンネルも、自社サイトか、モール、既存の店への卸ぐらいしか見当たらない時期でした。既存の販売方法自体が廃れ、市場が大きく揺れ動き、オンラインに向かっていく時期だったと回想します。今なら、動画編集&SNSの方が主流なのかもしれません。
私は商品のリアリティを大事にしていたし、いまも手に残っているものは、必ず何らかの動機とエピソードがくっついています。自分には商品しかないと思っていましたから。
完全に内的な衝動から生まれたもの、お客様との対話から生まれたもの、其々です。考えてみると、後に催事出店のきっかけになるgakouの南澤くんと外で出会って、その後、行動を共にして出店し続けたのは、運に恵まれていたと思います。
無駄の多い動きは、エネルギー値が高くないと続けられないんですね。ざらついた手触りの様な体験を求めながら、クラフト市の様な出店スタイルも限界を感じていた時に、催事への出店を橋渡ししてくれて、その後は丸善をはじめ、売り場を屋内に移していきます。視点の解像度を高くしていきながらも、よりフォーカスする機を見計らっていました。これが本当に難しくて、最初からできれば理想的だけど、決め打ちしていいことはありません。案の定、"時間がかかった"ということです。
徐々に解像度を高くしていくのと、急造した世界観を固めていくのでは、出来上がるもののリアリティが異なりますね。正解があることをやっているわけではないのですから。
一言で言えば"泥臭い"歩き方ですね。でも、これは実のところ、確実性を求めた「システム」なんじゃないかと思うのです。このブログで言いたいことはこれだけ。はっきりした正解が存在しない中で、"泥臭い"ことをする人は一定数いると思うのですが、もう少し簡単にストレートにやればいいじゃないかという声は常にあるわけです。器用or不器用という評価軸はありますが、仮に移し身が巧くなくても、とれる方法が他にあるって考える事が必要かなと。目指す地点に、到達するのに、華麗で綺麗な手法じゃなければいけないわけではないのですから。
自分を一歩離れたところで、確かそうな方法は目に入ってくるけど、自分軸に照らし合わせると、容易に出来ないし、正解な感じがしない。これはかなり砕けた言い回しになっていますが、他人の正解をそっくりそのままトレースしても、正解になるとは限らないタイプの人間もいるって事です。