国道1号線 | Struo-break

立てるペンケースの開発をしてた当時、夜間の国道1号線を頻繁に車で往復していた。子供の送り。旧工房に戻る時、シン・リジイのジャケの様に、月が低い地点にポッカり浮かんでいて、ハンドルを握りながら、水面下で進行する異様な事態に思いを巡らせていた。行政から届くという接種券の頻度が常軌を逸している。未否の故意でも、結果的に加害する様な社会を生きなきゃならない。それだけじゃない。意外なかたちで,、親世代の認知と論理の歪みが露呈される。実は身体を健全に保つ上で、これらが重要な役割をしている。自己免疫を率先して傷付ける高齢者を見るのは耐え難いだろうなと感じていた。これもクオリアのうち。
その傍らで、脳は自分が完成させなければならないケース設計の最後の詰めモードに入っていた。モノが出来上がる時はその時の心境が出る。具体的な顔、ポケットの造り、分岐点はいろいろあるが、どうやって決まったのか覚えてない。合成の過程において、大体細部を決めきれないのだが、この時は、このタイミングで完成させたいという決意が細部に至るまで働いた。結果的には革の素材感を生かしながら、粘りの要素が効いていたと回想する。そこから今に至るまで、改良しつつ、5年くらい経過している。その間、当時予期していた事は大体起きたし、起きてから初めて知る事も多かった。叔父さんたちは身体を悪くして亡くなられていった。
最近、父のために幾度か手すりの購入をしては、実際には役に立たないという事が判明する。身体の状態が悪い人間の不自由さというのを理解し、少しでも解消する様な製品が少ない。ユニバーサルデザイン。学生時代に触れた、結構好きなカテゴリだ。けど、問題を抱える当事者意識が欠落し、いまいち掴みどころがなく、当時から赤池学さんが発する生物の生態模倣への関心へと流れて行った。ユニバーサルデザイン~箇条を述べよと就活で詰問され、そもそも、デザインはユニバーサルなもんだと就活で喝破したという友人との深夜の会話を思い返す。手すりなどは分析の底が浅いせいか、設計が詰め切れてないと感じる。論理を素材に写像する際に、実際の状況の多様性が想定されていないが故にうまく機能しないといった様子だ。そのため、ユニバーサルデザインという概念を見直すきっかけになっている。